卒業論文の終わりは終わりの終わり

ひっさびさに日記を書きに来た、というのも卒業論文審査会が先ほど1月28日12時をもって終了したからだ。厳密にいえばこれは理由ではないのでしょう。本当の理由は卒論審査会が終わったことが達成感や疲労感などもろもろの想定していた感情を吹っ飛ばし圧倒的なさみしさを引き起こしたから、の方だ。

卒業論文審査会をもって東京理科大学が私たち学生に用意したすべてのカリキュラムが終了することとなる。つまり、卒論の終わりは大学の実質的な終わりということで、その意味なんて今までの人生で一回も考えたことがなかった。

だからきっと、不意打ちだから、我慢できないほどの寂寥に苛まれているんだろう。

大学の終わりは今まで小学校いや幼稚園から続いてきた長い長い学生生徒としての生活の終わりだ。生徒の終わり、というと勉強が本文である身分の終わりが最初に浮かぶように思えるが、私の中での生徒の終わりは先生という概念との別れの部分が最も大きな攻撃力を持っている。

先生と生徒の間に横たわる断絶は絶対だ。

まず一番の断絶がプロセスの側面だろう。一見、これから向かう社会の中でも勉強をしたり教えを乞うたりするという面では、上司と部下という関係が存在する。これは先生と生徒に近いように思える。しかし、先生と生徒との絶対的な違いとして断続と連続を挙げようと思う。部下は時間的に連続してそのまま上司になる。会社に入ればたちまちに毎年のように新しい後輩が自分の下に滑り込むだろう。部下自身はなにもせずとも時間が彼らを年輪の外側に押しやっていくのだ、人間の子供がその姿かたちのまま大人になるようだと思う。

それに対して先生と生徒にそのようなグラデーションが移り変わるがごとく変遷は存在しない。生徒は時がたっても生徒のままだ。生徒が先生になろうとするには教員免許を取り、教育実習に行くような「先生と生徒の間」が存在する。まるで芋虫が蝶になる前にさなぎになるような違いに思える。

そのような明確な過程の違いが断絶の溝を掘る。

過程の違いが役割の違いを生む。先生はいつだって先生で、生徒はとことんどこまでも生徒としての動きに徹する。上司と部下は、取引先でなどのシチュエーション次第では役割が同様になり、瞬間的に部下が上司を超えることだってしばしば発生するだろう。電話を取るときだって、営業部長の山田はただいま席を外していまして、のように急に呼び捨てになるし、昇進で関係性が反転することもある。

先生と生徒にこれらはあまり発生しない。高校を卒業して先生のラインをもらっても学生時代のようにもちろん敬語で話すし、生徒の方がいい大学に行くことになったり勉強が先生よりとくいになったって先生はずっと先生なのだ。

不可逆な関係性が生むわかりやすい違いにライバルになりうるかがある。同じ階層に所属しているからこそ争いは生まれる。先生と生徒とは全く違う役割としての存在するからこそ振る舞いが固定されるのだろう。

橇の合わない上司部下と違い、先生と生徒の役割の中には個人の感情を排除しでも先は生徒に教育という一定の施しを与えるというものがある。私はきっと無意識の間にそういう恩恵をたくさん受けて20年近く生きてきたのだろう。

断絶の名の下に無知や無責任などの呵責から守ってくれた、あたたかくやわらかくも頑丈な、先生という概念。寒さや恐ろしさから守ってくれたあたたかな繭がするするとほどける、聞いたことのないさみしい音がする。

学校も先生も大っ嫌いな人はきっとたくさんいる。俺は好きだったぜ、ありがとう。そしてさようならもう二度とない先生、先生は有限だったんだな、圧倒的な不可逆よ、俺はまだ生徒でいたかった

 

ロジックポエムか?